サイバー大学をなさっている吉村先生にお読みいただき、ありがとうございました。
私は、あの本の共同執筆者の中で、唯一のネット者です。
私の言論は、あの本の中の1/10であり、なかなか私の意見がお伝えできなかったことと、自らの文章力のなさを恥じております。
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あの本で私が述べられなかったことの一つは、テレビやラジオがマスディスディストリビューションに過ぎないこと。
そして、インターネットの特徴はインタラクティブ(対話)であり、対話によってコンテンツそのものも可塑(プラスチック)されること。
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定食と一品料理というのは、既存のマスディストリビューションな考え方であって、2007年のウェブというのは、もうひとつ先に進んでいると思います。
つまり、ウェブユーザーは、メニューにも載っていない料理を注文しかねないし、食べてもいない・料金を払ってもいないにも関わらず、料理に文句を言う。そのような時代がすでに来ています。
そして、テレビなどの既存のメディアたちは、匿名批判・個人攻撃・衆愚・著作権などの言葉を使って、ウェブ言論を目の仇にしている。
だが、その勝敗の行方は誰の眼にも明らか…。長期的にみて、既存メディアがウェブに勝てるはずもなし。
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新聞がウェブになることを、紙媒体がディスプレイに変化すると単純に考える人たちが多いようですが、それら間違っています。
紙がディスプレイになることにより、コンテンツのパッケージ性が希薄になるのです。
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ならば、
放送大学はパッケージ性が高い授業であり、サイバー大学は対話性が高く、可塑性の高い授業にならなければ、メディア特性を発揮したことにはならぬでしょう。
勿論、通信添削のようなことはする必要はありません。
大学の授業と同じ。教授は、重要な意見・質問にはどうどうと答えればいいし、レベルの低い質問には答えなくていい。
そして、それは、私の研究分野とは違う。他でやってくれ。というのもあるでしょう。
要は、講師の力量が試される厳しい世界…。
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吉村先生のサイバー大学の実態を知らぬので、私のジャストアイデアでしかありませんが、放送と通信の違いとは、マスディストリビューションかマスコミニケーションがの違いではないでしょうか。
イザにおいては、ブログが炎上するという現実を一切伝えない、産経新聞イザ欄や、記者ブログに疑問を呈しただけで、記者から因縁ともいえるようなコメントを書かれたことがあります。
私は、それをイザの会社に電話をしたら、別の社員が出て、それが当人に伝わったらしく、私が電話でクレームしたことを批判するコメントがさらにやってきた。
思うに、私に対する嫌がらせ的なコメントは、会社の黙認したものであり、いわば総会屋対策的なものであった。
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その経緯は、このブログのほかのエントリーで確認できることでしょう。
市民参加型ジャーナリズムにご関心があるようでしたらば、私のブログをお読みいただけると幸いです。
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ヴォルテールの言葉、「私はあなたが何を言っても賛成しないが、私はあなたがそれを言う権利を死んでも護るだろう。」
イザには、フランス啓蒙時代の哲学者が矜持とした気概はないようです。
インターネットには、ヴォルテールの言葉を支持しなければ、反映はない。
それがウェブ2.0の世界だと思っています。
とはいえ、クローズドなコミュニティーであるMixiがウェブ2.0的であるなどとされるマスコミですから、イザをそれほど責める必要もないんでしょうね。
追記:
ライブドアPJニュース、オーマイニュースは、特定者の言論をすでに封じています。
イザはどうなのか…。はたしてイザブログはコミュニティーなのか。メディアなのか…。
わたしには、バイラルマーケットのひとつとしてしか感じられないのですが…。
私は処世としての商業を否定しません。
そして、ある意味、仕事の傍らで書き続ける状況が変わったらハッピーだな。という気持ちもある。
ただ、商業的であることが、いまのマスコミの価値を下げている。ならば、私はそのようなものに属するつもりはもうとうありません。
商業的であることを具体的にいえば、
・自らのスポンサー(広告主)にとって都合のよい文章を書き、広告量を増やそうとすること。
・批判的記事を書くことで興味を引き、読者を増やそうとすることです。
本来あるべきは、
・現実に反対であれば、反対する記事を書く。賛成であれば賛成の記事を書く事。(それを意見ではなく、事例の選択で婉曲に表現すること)
・現実に起きていることは、なるべく偏向しない視点で取り上げる。
・抽象的な意見は最低限に抑え、具体的事象をとりあげることによって、自らの視座・問題意識を示す。
そういうことをめざすべきです。
それらは個の問題であり、メディアの問題である。そして、それはシステムでは達成できぬ。
情報を発信するひとたちの矜持として成立させなければならないと思っています。
>「sponta」先輩。
>いつも辛口トークを楽しく拝見しています。
>ただ、1点。突っ込みますが、
こういう書き方はやめませんか。
先輩として立て、辛口と表層であると指摘し、ただ一点と、突っ込みたいところは満載だがとほのめかす。
別段、私は副編集長さんとディベートをやろうと思っていません。
お互いの意見の乖離に立って、お互いが気づきを得られるかということを目指しています。
私のブログをお読みであるかどうかは分かりませんが、真理谷円四郎の議論とはそういうものです。
>>トラックバックも機能しているかどうか定かではありません。たとえば、
>>1000を越えるトラックバックが張られた場合、それらをたどることは不可
>>能なわけで、トラックバック機能は無価値になっているといえるのかもし
>と、トラックバックというシステムの無能ぶりを取り上げておきながら、他方で、
>>私が主に展開しているブログでは、アルファブロガーと呼ばれるひとたち
>>や、ウェブ2.0の提唱者となっている人たちが、コメント欄を閉じていたり、
>>自分に都合の悪いトラックバックを拒否していることを批判しています。
>と、一方で、トラックバックの(擬似)双方向性に期待をかけておられる。。。
>なんだか矛盾していませんか。
私のブログをどこまで御読みかどうかは分かりませんが、純粋律を操る人は卑怯であり、矛盾命題にこそ、議論する価値があるとすでに言明しています。
そして、ブログの不備はトラックバックシステムにインテグレートシステムを持たないことにあると思っています。
トラックバックされたものは、受容か拒絶のふたつの選択肢しかない。それに不備がある。そうした気づきをお互いがすべきだと思っています。
>.....ちなみに、貴方のトラバやコメント書き込みに反応していないからといって、一挙両断とばかりに「対話を拒否している」と判断する姿勢。
すくなくとも、私は問いかけをした。それについて、「読みました」でも、「お互いの意見の乖離は深いですね」でも、対応はできたはずです。対話とはそういうものだし、挨拶とでもいうものもできたはずです。そして、いま副編集長さんがコメントしてきたということは、まさに対話を拒否してきたということではありませんか。
勿論、編集部にとって、私の重要度が低い。それだけのことかもしれませんが、それこそ、編集部や記者ブロガーが主役であって、ユーザー主役というウェブ2.0の精神とは相容れぬものでしょう。
ただ、これはイザに限ったことではない。JANJANもライブドアPJもオーマイニュース日本版も同じようなものですから、私の言説に棘があったとしても、イザだけを標的にして指摘していることではありません。
>それも変ですよね。もし、「sponta」さんのブログに、変質者としか思えない人からスパムメッセージの山が付いたとし>ても、それゆえ放置していたとしても、対話を拒否していると非難するのでしょうか。
そういう純粋律を持ち出すことに意味があるのでしょうか。
ただし、変質者であると思うかどうかは私の主観ですし。また、スパムメッセージを沢山受けることによって、気づかされることもある。
何故、これだけのスパムメッセージがくるのか。自分の問題か、システムの問題か、社会の問題か…。苛立ちや迷惑とは別に気づきは少なからずある。そういうことも具体的な対策を練ることが何故、現状のネット社会ができないのか。そのほうがlinuxよりもずっと有用なはずなのに…。
>逆に言えば、相手が食いつかないメッセージ、に問題はないのでしょうか。
勿論、そうですね。私は相手の対話を促すように、なるべく優しい言葉で書こうとしている。それでも、なかなか難しいのが現状でして、それは反省すべきところです。
ただ、どうなんでしょうか。
イザの編集部がブログ登録者にサービスする立場にないというのなら、食いつかなくてもよいでしょう。少なくとも、私は、イザに対して、建設的な意見を述べたつもりである。
その意見に対して、副編集長さんは、「あなたは矛盾している」とか、「ブログやスパムに関する一般論」に逃げている。
問題は、私の意見が建設的かどうかの吟味、そのための反論ではないでしょうか。
反論するならすればいい。納得するなら、その問題をどうしたら改善できるか考えればいい。改善できぬなら嘆けばいい。嘆くこともできぬなら、何もいえぬと言えばいい…。
>.....SNSでありがちの“mixi疲れ”を生むのは、そういった対話の強要ではないでしょうか。
時事通信社の湯川鶴章さんは、「これからのジャーナリズムは対話が不可欠である」と言いました。
湯川さんの意見に反論するならば、それもいいでしょう。
しかし、そうでないのなら、「対話の強要など」と言うことがジャーナリストにあるべき行為なのでしょうか。
私は、21世紀のコミュニティーの構成員は、対話を避けては生きてはいけぬと思っています。
アメリカのイミグレーションの窓口で対話を拒否したら、アメリカには入国できぬ。自らの潔白を証明できるのは自分だけなのですから、それを拒否した人はコミュニティーに属する資格はないとさえいえる。
そのように対話を拒否した人たちの凶暴性が9.11などの事件を起こしている時代では当然のことであり、唯一この世界を平和に導く道があるとしたら、それは対話しかないというのは空想なのでしょうか。
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せっかく副編集長さんにコメントをいただいたので、あらためてお聞きしたいのですが、「マンセー記事はやめましょう」に対する対話は、
「あれはマンセー記事ではない」または、「マンセー記事を書いたっていいじゃないか」のはず。
はたしてどっちなのですか。ぜひともご返答願いたいと思います。
勿論、今回のコメントからいえば、副編集長さんは対話を拒否することもできる。ただ、それは、明確に、「イザはブロガーとの対話を拒否する」という宣言になると思いますが…。
さまざまな気づきをもたらしていただき感謝いたします。コメントありがとうございました。
追記:
何故、イザをもっぱらとしていなのは、イザが対話を欲していないからです。ですから、今後、編集部が考えを改め、対話を欲するならば、すぐに軸足を動かします。
シンポジウムの話を興味深く読まれたそうですが、既存マスコミの延長線上にしかイザがないことが編集部の方々はご理解いただけたのでしょうか…。
そして、何故、寄せ書きにおける私のコメントの後にコメントが続かないのでしょうか? その理由をお考えになるべきでしょう。
すくなくとも室井佑月氏の場合は、私に対する読者たちからのバッシングが起こった。しかし、イザにはそれさえない。そのことに気づくべきことは多々あると思います。勿論、それを強要しませんが…。
私はそこから、イザに集ったブロガーたちの健全性を読み取ります。そして、どちらにも同調しない礼儀正しさも…。
ネットの爆発的な普及とともに、2ちゃんねるというリゾームが消えようとしている今、お互いが何をなすべきかというのは、それぞれの課題なのでしょうね。
イザの社長がWEB人of
さて、本日の「イザ・ペーパー」の「ブログ武器にブレーク狙え」につき、苦言もうしあげます。イザペーパーはタイアップページ扱いなのでしょうか。それとも、一般記事なのでしょうか。タイアップ記事ならば、はっきりとタイアップ記事であると明記すべきだと思います。
記事では、芸能人がブログを開設することによってファン層の拡大をはかっているとこととともに、それが芸能人の親しみやすさにつながっているとの印象を語っています。
しかし、現実は必ずしもそうではないことをこの記事を書いた記者の方はご存知ないのでしょうか。
ブログの特長は簡単に書き込めることと、コメント欄で読者とコミュニケーションがとれること。そして、トラックバックによって、同じ興味を持ったブロガーと意見を対照できることです。
しかし、ブログの女王と呼ばれる真鍋かおり氏を筆頭に有名芸能人でブログをやっている人の中には、コメント欄を閉じている人が殆どです。また、トラックバックも機能しているかどうか定かではありません。たとえば、1000を越えるトラックバックが張られた場合、それらをたどることは不可能なわけで、トラックバック機能は無価値になっているといえるのかもしれません。
ほとんどの芸能人はコメント欄を閉じていますが、不用意にブログを始めた芸能人や有名人の中には、手前勝手な意見をブログに書いたために、非難する意見がコメント欄に多数押し寄せるというケースが続出しています。
たとえば、日本テレビの元アナウンサー氏が、盗撮事件をおこした日本テレビ社員を擁護するブログを書いたケース。
宮崎あおい氏の彼氏が、感情的に日韓関係に関する意見を書いたケース。
吉本の若手お笑い芸人が、お客さんとはわがままなものであり、家族や友達のほうが大切なものであると書いたケース。
障害者のスポーツコメンテータが、皇族の男子誕生は祝賀すべきことではないと書いたケース。
冬季オリンピックの女子選手が、ボクシングのルールも分からないのに、亀田氏の勝利を擁護したケース。
…などなど、枚挙にいとまがありません。
たとえタイアップページであろうとも、不用意にブログを始めて、暴論を展開するならば、いつか大きな反発を受けてダメージを受ける可能性があることは説明すべきではないでしょうか。
私はそのような但し書きもつけないで、ブログ讃美をすることが、結果として個の言論の場を狭めていく予感がしてなりません。
私が主に展開しているブログでは、アルファブロガーと呼ばれるひとたちや、ウェブ2.0の提唱者となっている人たちが、コメント欄を閉じていたり、自分に都合の悪いトラックバックを拒否していることを批判しています。
勿論、これからまだまだブログユーザーは伸びていく余地があるし、そのためのプロモーションをすべきなのかもしれませんが、そういう警句を鳴らしながらプロモーションをしないのであれば、多くの人たち傷つけ・陥れることになるのではないかと思うのです。
編集部のみなさんのご意見をお伺いしたいと思います。
たしかに今回のことは事故には違いないですけども、自由な言論の場を守るために何をすべきかということをオープンにできたと思います。
私は、削除依頼は2ちゃんねるのように公開すべきだと思います。もうひとつは、訴訟に対する保険制度をつくるべきだと思います。
当該ブロガーの方は、たしかに言葉づかいは荒いけれども、ああいう言動のきっかけを、相手方(著者)がつくっていることは理解できる。もちろん、相手方には相手方の論理があり、もし訴訟などを起こされてもそれに対応すべき基盤(出版社や出資者)があるのでしょう。
しかし、個人ブロガーのほうには固有の論理はあるものの、訴訟に対抗するものがあるとはいえない。結果、個人ブロガーが自由にものをいえぬ状況がおこりつつあり、今回の場合はまさにその例…。
誤配の編集部の対応をみると、極めて合理的な対応で納得はするのですが、はたしてそれが言論の自由をめざしているのかと言われれば疑問符をつけざるをえない…。
そのような状況では、個人ブロガーは自由にものを言ったとしても散発におわり、結果としてひとつの言論たりえない状況が、いま、まぎれもなくネットで起こっている。
その一方で、巨大資本の出資で偏向した市民メディア・オーマイニュース日本版が登場する。何をしているのかまったく分からない編集部が左翼系の記事を連発している。その資金も本社もある種のバイアスがかかっていることが暗示される…。
そのようなネットの言論の場に掉さすことがイザの存在意義だとするならば、運営方針を大いに見直すべきだと私は思います。
イザ編集部さんのご意見を賜りたくぞんじます。
編集部、ブロガー、経営母体である新聞社のそれぞれが知恵を出し合って、あるべき自由な言論の場の構築をめざしていきたいものです。
たしかイギリスのエピソードだと思いますが、「あなたの意見には賛成できないが、あなたが自由に発言する権利を守るために、私は命をかける」と言った国会議員がいたと思う。現状がそれができない状況ならば、それを改善していくための努力をすべきではないでしょうか。
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戯画的にいえば、オーマイニュース日本版がやっていることは次のような感じ。
| 階段の上に投票所をつくっておいて、車椅子の人は誰も投票にこないんですよね。と、車椅子の人たちを批判しているようなものだ。 |
鳥越氏やオ・ヨンホ氏が何を言おうと、現実にメディアとして多様で自由な言論の場を現出していないなら、戯言と片付けられてしまうに違いない。
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さて、彼らが批判する2ちゃんねるの叡智を田代砲に見る。というか2ちゃんねるを見ていて、田代砲という語が分からずにぐぐってみたら、あれまびっくり…。抱腹絶倒した。
24時間マラソンの監視ボランティアよりも建設的であり、ワールドワイドだ。
田代まさしの項より、パーソン・オブ・ザ・イヤー 事件後、2ちゃんねる上で、2001年の「タイム」誌の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に田代 しかし、不正な組織票が投じられたと言う事実は火を見るより明らかであった為に投票が中止され、結局パーソン・オブ・ザ・イヤーには元ニューヨーク市長のルドルフ・ジュリアーニが選出された。 とはいうものの、このウェブサイト上の投票では田代以外にも実在しないローマ教皇ハドリアヌス7世(Pope この騒動によって2ちゃんねる内にお祭り会場板が開設された。 その後2002年度のタイム誌アジア版の「アジアのヒーロー」の投票、2003年度の東京帽子協会主催「ハットグランプリ2003」の投票などでも「田代まさしをインターネット投票で一位にする」という行為が行なわれ、Yahoo! WIKIPEDEAより |
鳥越氏は、2ちゃんねらーは「匿名で好きなことを言っている」としか思っていないようだが、2ちゃんねらーの行動原理はそうではない。「特定分子の大衆を装った言論誘導に異を唱えるのだ」。
田代砲が何故開発されたかといえば、アメリカの特定団体の好戦的な世論誘導を妨げるため、田代まさし等という意味・価値がゼロなものを掲げたのだ。もちろん、そこにジョークもある。だが、ジョークだけで人は動かぬ。社会に対する憤りや正義感が2ちゃんねらーの心根の底にある。
勿論、そんなことを指摘すると、一部の2ちゃんねらーからは批判も食らうのかもしれぬが、私はそう思っている。
現在は、田代砲などを発すれば、すぐに警察が動き出す時代だから、あまり心配はないだろう。だが、多様な言論を反映しないかたちで存在するのに、そこであたかも多様な言論が表出しているとの喧伝をメディアがすれば、その偽善性を暴こうとさまざまな取り組みがなされるのは必定だろう。
基本的に24時間マラソンの監視と同じ精神である。その裏には、偽悪のダンディズムがある。
では、どうすればいいのか。そこに情報技術の知恵が必要になる…。
多様な言論を抽出するには、多様なシステムが必要になることだけは必定だろう。
CNNのニュースでは、すでにネットサイトを紹介しながらニュースが解説されることが多い。
テレビ朝日の「やじ馬ワイド」のリファレンスとして、オーマイニュース日本版が登場する日が来るのだろうか…。
【主旨】
ものを言いたい人のバイアスを排除しなければ、市民のメディアは誕生しない。
【本文】
オーマイニュース日本版がスタートした。記事は概ね左翼的なものが多いようだ。プロジャーナリストで編集委員でもある佐々木氏は編集部が左翼的だからこうなったと言うかもしれぬが、私はそうは思わない。既存マスコミのジャーナリスト研修に問題があるとの指摘があるがそうも思わない。集まった言論たちは編集部よりもずっと左翼的であった。編集部員たちにメディアが左翼化している原因を求めるのはかわいそうだ。(ただし、編集者としてではなく記者として関わったものは除く。)
発信者に求められた実名や身元確認という制限が、このような現象を生んだのだ。ここで起きていることは、小泉首相のタウンミーティングが反対派勢力の総決起集会の場となったことと同じ現象である。
何故、そのような言論の場に左翼ばかり集まり右翼が集まらないのかといえば、左翼は言論活動を好む傾向があるのに対して、右翼は行動を尊ぶ傾向があるからだ。
左翼者たちは仲間を求め集会やデモを好むが、右翼者たちはそのようにつるむことをカッコいいこととは思わない。右翼の思索は自己に向いており、典型的な行動は山口乙矢氏のようなものだろう。
ネット右翼などという言葉があるが、正確にはネット・右翼シンパである。彼らの中から山口乙矢氏のような青年がでてくる可能性は低いといえば、ご理解いただけるだろうか。コメントすることで集束するようなものを右翼の精神は軟弱とみるに違いない。
同様に、その構造は政策論議が好きな政党と、政策の実行に専心する政党をイメージしていただければ分かりやすいかもしれぬ。
☆
何をいいたいのかと言えば、「みんな自由に発言してください」と呼びかけても、みんなが自由に発言することはない。ということだ。そして、主宰者は、「私は自由に発言しなさいといいましたよ。みんなが発言しないのは私の責任ではない」というのと同じことである。
たとえば、スクールカウンセラーという仕事の人が小学校に配置されている。彼は、チラシを配り、いつでも相談にきてくださいと言って、部屋で待っている。電話番号を皆に配り、電話の前で待っている。だが、そのようなことをしても、本当に悩んでいるこどもは部屋にいくことも電話をかける余裕もない。あるべきは、相手がコミュニケートできるように、こちら側から働きかけ努力をつづけることだ。
発言しない人・できない人を社会の構成員として認めないなら、それでもいい。だが、そうでないならば、いろいろな手をつかって発言しない人・できない人たちの発信を促さなければ、極めていびつなメディアができあがってしまうと思うのです。
そして、少なくとも、発言しない人・できない人の代弁者を用意することぐらいはできるだろうと思うのです。
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こどもとコミュニケーションするときは、ひざまずき、目線を同じ高さにすることが重要だといわれる。
オーマイニュースは、自らの目線の位置を絶対的なものとして、譲ろうとしないから、コミュニケーションしようと近寄ってくる人たちのバイアスがキツイ。
鳥越編集長は責任ある言論というが、責任という概念はそもそもマイナス思考である。そして、責任を、実名や身元確認で求めることは自由な言論を触発しない。
最近の東京の大規模停電を考えてみればいい。従業員50名程度のクレーン会社が被害総額が一兆円にも及ぶという責任などとれるはずがない。ならば、現実な対応して、誠実であること。それしか社会は当事者に求めることしかできぬ。
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情報は変化していく。いままで正しいと思っていたことも間違っていたことが分かる。ならば、情報に対応して、自らの言説も訂正すればいいだけのことだ。(渡嘉敷島、大江健三郎氏関連について申し上げています。)
いかに誠実であるか。
それこそ、永遠のベータ版であるインターネットを生き抜くうえで、一番重要なのことだと思うのです。
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| インターネットの有用性のひとつは、誰でも発信できることだ。 そして、二つ目の有用性は、それによって成立する対話である。 コミュニケーションを否定して21世紀のメディアは成立しない。20世紀のマスコミとは、メディア人たちのマスに向けての一方的なコミュニケートでしかなかったが、21世紀のマスコミは、本当の意味でのマスコミュニケーション・相互通信とならなければならない。 |
自由に言論できる場をつくれば、議論がおこり、その過程で感情の爆発や摩擦が起こるのは必至だと思う。だが、そのような場であっても共存共栄を模索し、それぞれの言論者にとって有効なメディアをつくることを目標に、メディアを運営する人たちは努力しなければならないだろう。
そう考えている私が重要なリファレンスとして考えているのが武士道であり、剣術であり、禅であり、仏教である。勿論、それらの底に、日本古来の修験道的な神道の考えがある。
オーマイジャパンのために来日されている方々が私の文章を読めるのかどうかは分からないが、ぜひとも参考にしていただきたい。勿論それは、私の意見に対してではなく、現代の武術家・甲野善紀氏の著作であり、武士道、剣術、禅、修験、神道などについてである。
☆
甲野善紀氏の「剣の精神誌」(1991・ノマド叢書)を読んだ。この本は、元禄期の江戸で一万人の弟子を持ち、千回の他流試合で無敗を誇った無住心剣術の真里谷円四郎を中心に書かれている。
江戸初中期の剣術の精神がいまの日本人に縁遠いかと思うかもしれぬが、「無念・無想」などという言葉は時代劇を通じてなんとなく知っているかもしれない。オリンピックの選手などが、「敵に勝つまえに、まず自分に勝たなければだめだ」などと自分に発破をかけているのも、円四郎の精神が私たち日本人のDNAとして受け継がれているのかもしれない。その思想は、己を知り、敵を知れば百戦百勝といった宮本武蔵とは明らかに異なる。
円四郎の言葉に次のようなものがある。
| 剣術とは、ただ勝てばいいというものではない。命をかける大事な局面で、真に自分が納得できる決断と行動をとれるようにする術である。 |
これは剣について書かれたものだが、これを議論におきかえてみれば、オーマイニュースがいましていることの浅薄さに気がつくことができないだろうか。
無住心剣術は、「とかく世間一般人は己に利あることばかりして、その利得のためには人の道に外れたことを平気でするものだ」、「自分にとって得することは皆取り込み、悪いことはみな他人の身にかかるように願う」と、他流を批判している。現代の武術家である甲野氏は、無住心剣術とは、切り返す、外す、かわす、いなす、誘い出す、混乱させる等の一切を行わぬ剣術であると説明している。
これを議論に置き換えてみれば、「言論することとは、論敵を打ち負かすことを目標とせず、自分の思うこと納得がいくまで考え抜くことが勘所である。それをとことんつきつめて行けばよい」ということになるだろう。
無住心剣術では、「争う気持ちを持った方が自滅する」と断じるが、ネット上の議論を幾度となく繰り返してきた私としては、大いに納得する。
兵法の第一は闘わすして勝つことであり、無住心剣術の極意も「戦う」という異常事態を自然の状態に戻すことだから、ネット上の議論で私が勝利したというなどないし、相手が負けたということでもない。
5月に相対した小説家氏も、私に負けたと思っていないだろうし、私も勝ったと思ってはならぬ。
ネットは無限の空間なのだから、そういうものだし、それでいいのだと思う。
☆
「勝つと思うな、思えば負けよ」という美空ひばりが歌った「柔」がある。この歌詞を生み、この歌詞を愛でる日本人を利己的で好戦的な民族だと断じる人たちがいることを残念だと思う。そのようなことが間違いであることを、日本人は世界の人たちに対して説明しつづけなければならないと思っている。
| 「自分を意識するから敵があるのであり、自分を意識しなければ敵もない。敵というものは、もともと対になる二つのものの片方の現れで、陰陽や水火といった象徴的な対構造(概念)と同じものである。およそ、形(象)のあるものは、すべて、こういった対構造をしている。したがって自分の心に形(意識するところ)がなければ、対立するもの(対となるもの)はない。対立するものがなければ当然争うことはなにもない。これを敵もなく、自分もない、というのである。 対立する物も、自分も、ともに忘れて深くやすらかにして、一切の妄念をなくした時は、すべてのものが調和して一つになっている。このとき敵を倒すと、それは自分で倒したという意識はない。というより、ただ自然の流れのなかで自然に動いたというだけであろう。このように心が深く静かで、一切の妄念が消えている時、全世界は自分であり、自分が全世界である、という心境になっているものだ」。 佚斎樗山「猫の妙術」(1727) |
上記は、柔がテーマ曲となったドラマの原作・小説「姿三四郎」にも引用されている、剣術の教科書的な講話である。
全世界は自分であり、自分は世界であるというのは、世界を君臨するということではなく、自分。つまり、自然の分身としての己を自覚することを言うのだろう。
☆
甲野善紀氏は、日本に武家政治が700年続いたことを次のように分析する。
武士は、究極の利己の営みである命のやりとりを越えて到達する「究極の無私の境地」を獲得している。そのような境地に達したものが庶民たちの尊敬の対象にならぬわけがない。日本の武家社会は現代史で見られるような軍事政権とはまったく異なるのである。
殺傷は勝利者に引け目や怯みの心を生む。世界の英雄たちは、それらを隠したり、開き直ることで歴史を先にすすめようとしてきた。だが、日本の歴史だけは、それらに誠実に対峙しつづけてきた。日本には怨念思想があったからといえば身も蓋もないが、日本の武士道は、西洋の騎士道などという限定された人たちの職業倫理とは大きくことなる。単なる理想でもなく実践をはらみつつ大衆を巻き込んだ大いなる合意事項なのだと、私は考えている。
ジャッキー・チェンが操る東アジアの武術と日本の武術の大きな違いは、その動きの型でなく精神にこそあると気づかねばならぬ。
ひとことでいえば、嘉納治五郎氏が説いた「自他共栄」ということになるだろう。
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オーマイニュース日本版スタートまで、24時間を切った。だが、状況は混沌としたままである。
世の中はアンガールズが完走できるかどうかに注目が集まっているが、日本の民主主義を考えるうえで、この24時間も見逃せない。
とはいえ、オーマイニュース日本版の情報に速報性的価値は低い。だから、前回同様、9月1日にマスコミを賑わすか、シンポジウムを終えた9月3日の日曜日に話題となるか。そのどちらかだろう。
☆
反発を恐れずに指摘すれば、「みんなが市民記者」というのは魅力的なスローガンではあるが、このメディアの関係者は、「すべての市民が市民記者になること」を望んでいないようだ。
ただし、マスコミの伝統的語法によれば、左翼的言論の無名人は市民と呼ばれ、右翼的言論の無名人は民間人と呼ばれるそうである。そうだとするならば、オーマイニュースは間違っていることはしていないし、私も批判するに及ばない。ただ、市民という言葉を取り上げられてしまった私はどのような言葉を使えばいいのか。途方に暮れるのみである。
とはいえ、プロ市民とプロ民間人を排除するために市民という言葉を捨て、新しい言葉を使いはじめるならば、それはすばらしいことだと思う。
新しい言葉の概念に一番近いのは「個」「個人」「私」「私人」である。「私的…」などというレトリックが汎用される時代を考えれば、市民参加型ジャーナリズムも、私人参加型ジャーナリズムと変えてもいいのかもしれない。公なる人も私として発言するメディア。そういうものが、市民参加型ジャーナリズムのめざすものの一つであることは間違いない。
私人であることは、ステークホルダー(利害関係)も超越できる。そんな期待もできる…。
☆
見方を変えてみる。
韓国メディアの日本上陸という歴史上稀有な出来事が明日に迫っている。
その背景で何が起きているのか。そのことを痛感しているこの数日の私…。
プロジャーナリスト、アルファブロガー、MIXI、シンポジウムなどのツールをつかった権謀術数ともいえる作戦を眺めていると、まさに日本的な精神風土とかけ離れたものが日本にやってくる。そのことが私にはどうしょうもなく見えてくる。
日本人は、そういう権謀術数を嫌う文化がある。異国からの来客はそのことを学ぶべきだし、それに関わっている日本人たちは、今一度、日本の精神的風土というものを勉強すべきだと思われる。
日本人のコミュニティーを扱わなければならぬ市民参加型ジャーナリズムがそれらを考慮しないならば、何の発展も期待できぬだろう。
勝てば官軍ではない。勝てば官軍と言って批判されたのだ。勝利の瞬間は、次の戦いへの始まりでしか過ぎない。オシム監督にいわれなくても、永遠のベータ版であるインターネットではそれは自然の摂理なのだ。
☆
乱暴に言い放ってしまえば、宮本武蔵や日光東照宮から日本を読み取るのではなく、姿三四郎や桂離宮から日本の心を読み取れ。ということである。
「勝つと思うな思えば負けよ」。無念無想。これらのキーワードをあげれば、言論の世界とはいえ、彼らがやろうとしていることがまことに恣意的で、日本人の精神的風土から反発を食らうことは必至であることは、理解していただけるかもしれぬ。
その仔細は別のエントリーに譲ることにして、オーマイニュース開店準備ブログにコメントしたものを以下に採録する。
佐々木さんに対する返答を読ませていただきましたが、それに感想を述べることよりも、オーマイニュース日本版が成功するための基本的要件を満たしていくことが効果的だと考えます。 以下は、ライブドアPJおよびJANJANで経験した諸問題から勘案した成功の条件です。 努力事項は、市民参加型ジャーナリズムが社会的影響力を持つための必要条件です。 それぞれにつき、貴編集部は、 ・その項目の重要性を認めるのかどうか。 ・認めるなら、それを実現しようとしないのは何故か。もしくは、実現できない障害はなにか。 ・認めないなら、その論拠は何なのか。 を明らかにすべきだと思います。 それにつき、何らかの返答をしないのであれば、コメント欄を開けている意味がないと私は考えます。 勿論、コメント欄が存在しても、そこに編集部の方がまったく登場しない異常事態ですので、このコメントにも返答がないのかもしれません。しかし、私がここにあげた項目を貴メディアが実現するならば、各メディアは勿論、巨大掲示板の住人たちも賞賛するに違いありません。 8888888888888888888888888888888888888888888888888 【市民参加型ジャーナリズムの必須条件】 1.発信者の多様性の確保(実名・匿名・HNにしばられてはならない) 2.編集部の透明性の確保 3.編集過程の透明性の確保 4.編集部員、市民記者相互の対話の活性化(インフォーマルコミュニケション) 5.編集部、編集部員、市民記者、相互の対話の活性化(フォーマルコミュニケーション) 6.編集部、編集部員、市民記者の思想的立場・発信動機の透明性の確保 7.検証、訂正システムの構築・その過程の透明性の確保、それに関わる対話の活性化 8.外部圧力に対抗するシステムの構築(論理・システム・法務) 88888888888888888888888888888888888888888888888 88888888888888888888888888888888888888888888888 【市民参加型ジャーナリズムの努力事項】 1.一覧性の向上 2.総覧性の向上 3.記事の品質の確保 4.記事の多様性の確保(対照意見・参照意見・多様なリファレンス) 8888888888888888888888888888888888888888888888888 |
上記の夏休みの宿題を彼らはどう処理するのだろうか…。
この宿題を出してしまった以上、既存のメディアたちはチェック項目として指摘せざるを得ないだろう。そして、このチェック項目を無視することで、既存のメディアたちのスタンスも明確になるに違いない。
勿論、このような項目を公開したのは、ライブドアPJならびにJANJANがこの項目を満たすことができれば、メディアとして再生できるとの思いも込めている。
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ところで、関沢新一氏が書いたという「柔」の歌詞。
私は、美空ひばりの歌で、
「お国生きてる柔らの夢が」だとずっと思っていたが、「奥に生きてる柔らの夢が」だと今回はじめて知った。
ちなみに、武術家・甲野善紀氏の考察によれば、「柔(体術)とは、相手を傷つけることなく相手を制圧する日本人の知恵の結晶」とのこと。私が考える、もののふの精神とは、「命のやり取りという究極の利己の営みを超越したものだけが達することができる、窮境の無私の境地」である。そういう利己的ならざる精神が武家政治を支えていたため、武士の時代が700年も続いたのだろう。
目先の戦いに囚われぬこと。利己的ならぬこと。
それがネット時代に行きぬく唯一の術であることを確信している。
…と、柔道場に通って6年の私は、その実力も省みずに偉そうに語るのだった。
本日もお稽古に行ってきます。www


by sponta
ヴォルテールの言葉